全国で最も多くあるとされる諏訪神社。その数は1万社を数えると言います。その総本山が長野県諏訪市の諏訪大社です。諏訪大社は諏訪湖を挟み南と北に上社と下社に分かれ、そひてそれぞれが二社から成り立っているという日本でも珍しい上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮からなる四社体制の神社です。
本宮の祭神はタケミナカタの神様(建御名方神)です。
タケミナカタの神は諏訪大明神、お諏訪様として親しまれ、風や水に直接関係のある農業の守護神としても有名で、水の信仰が後に海の守護神となり、古い港には、お諏訪さまが祀られています。
お諏訪さまとは昔の農民や漁師にとって自分達を守護してくれる無くてはならない身近な神様として感謝の気持ちを込めて「お諏訪さま」と呼んだのではと思います。
前記した本宮の祭神はタケミナカタの神様(建御名方神)には妻神となる神「ヤサカトメの神様(八坂刀売神)」がいらっしゃいます。風や水の司る神様以外に御夫婦で「家庭円満の神さま」とも呼ばれています。
祭られている神様 | 祭られている場所 | どんな神様 |
---|---|---|
タケミナカタの神(健御名方神) | 上社本宮 | |
ヤサカトメの神(八坂刀売神) | 上社前宮 | タケミナカタの妻神 |
タケミナカタの神とヤサカトメの神 | 下社春宮 | |
タケミナカタの神とヤサカトメの神 ※1ヤエコトシロヌシの神(八重事代主神) |
※1タケミナカタの兄神 |
下大久保 諏訪社の正確な創建年代等はGoogleで深堀りしても「不詳ながら」の文献ばかりでした。創建年代を示す古書では「応安2年(1369)銘の文書に「大窪郷すはの大名神」の記載」があるとされ、室町時代以前に諏訪社があっとされています。江戸期には下大久保村の鎮守として字中郷に祀られていましたが、元禄7年(1694)以降の新田開発に伴い現在の場所へ移転。それまで古来の日本では神社とお寺の混在を良しとする「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の習慣がありましたが、明治政府により神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別する「神仏判然令」が発せられ、諏訪社も明治6年村社に列格したといいます。(※引用:埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
下大久保 諏訪社の祭神は前述した諏訪大社のお諏訪さま「タケミナカタの神(健御名方神)」です。
諏訪社が現在の下大久保に移転したのは元禄七年(一六九四)以降と記載があります。新田の開発に伴い、当時の人々が風や水に直接関係のある農業の守護神「タケミナカタの神(健御名方神)」を祭る諏訪社を新たな農作地の開発である新田開発が順調に進むことを願い移転をしたのではと、諏訪社を移し奉斎した当時の人々の心情をうかがうことができます。(※引用:猫の足あと様より)
当地は中世に大窪郷に属していた。応安二年(一三六九)の「大窪郷頭方三分一方田畠注文」(正木文書) の中に「一、田大 畠二反すはの大明神」と当社の免田畠が見え、当時田畠の年貢・公事が免除されて、その分が当社に給付されていたことがわかる。
口碑によれば、当社は、初め下大久保村の中郷にあったが、元禄七年(一六九四)以降に新田が開発されたことに伴って現在地に移転したとされ、そのころの当社付近は新田でも新しい土地であったため、境内の広さもわずか七五坪しかなかったという。こうした話からは、新田開発が順調に進むことを願い、新田に当社を移して奉斎した当時の人々の心情をうかがうことができる。
『風土記稿』下大久保村の項には「諏訪社 村の鎮守なり、浄泉寺の持」と載る。神仏分離を経て、当社は明治六年四月に村社に列した。
本殿には、白幣と共に、嘉永七年(一八五四)に江奈本甚平によって奉納された板絵が安置されている。この板絵には、太刀を帯び、鋭い眼光でにらむ建御名方命の姿が彩り豊かに描かれていたが、現在ではその輪郭が分かる程度にまで摩滅しているのが惜しまれる。
なお、別当であった曹洞宗浄泉寺は、明治四年に廃寺となり、その後は薬師堂として存続していた。しかし、昭和三十年の中ごろにはこれも取り壊された。
【諏訪社境内の掲示より】
下大久保 諏訪社の拝殿横には大人の身長ほどの水神を祀る「水神宮」の石碑が鎮座してます。お諏訪さまも水を司る神様なので、なぜ?ここに水に関する「水神」を祀るのか?と気になり、このGoogleで深堀りしても「明治三十年銘の水神宮碑」の記述のみで、後日 埼玉県立文書館にて関連文献を探して見たいと思います。
水神碑について私見ですが、栗橋の日蓮宗常薫寺に暴れ川と称される利根川の平定を願って昭和6年(1931年)に水神宮を祀ったとあります。
「今だ現役!レンガ造りの水門橋(千貫樋)」で紹介したように諏訪社のある下大久保地域も隣接する荒川の氾濫により幾度も被害にあった地域です。前述の日蓮宗常薫寺に祀られた水神宮と同様の思いで下大久保 諏訪社にも祀られたのかと私見ですが推察。
また現在、さいたま市から志木市につながる羽根倉には昭和13年に木造の橋ができるまで橋はなく、対岸に渡る為には「羽根倉渡し」と呼ばれる船を使って渡る方法しかありませんでした。
これも私見ですが、その為、川が荒れることなく安全な渡し船の運行と、それに関わる人々の安全を願い水神宮が祀られたかと推察します。