千貫樋(せんがんぴ)とは鴨川が荒川に流れ込む地点に設けられた洪水の際に荒川から鴨川への逆流を防止するための水門。最初の水門は江戸時代に建設。しかし、木造の水門であったために数年で腐朽し洪水の度に破壊され頻繁に修復や改築が必要でした。このため既存の木造樋管(※水門として水が流れる部分)(明治22年伏替)を煉瓦造りへと全面的に改築。明治37年(1904年)に鴨川落悪水路普通水利組合が、県税の補助(町村土木補助費)と埼玉県の技術指導を得て北足立郡大久保村大字五関に建設。以前の水門は四角形で3連式でしたが改築後はアーチ型の2連式へと変更されています。通水断面の仕様変更後の流量比較の計算書が残されていますが流速公式はマニング(Manning)ではなく、古典的なクッター(Kutter)が使われています。ゲートの形式は木製のマイターゲート(観音戸)で、これは荒川と鴨川の水位の変化に応じ自動的にゲートが開閉する仕組みだった為です。
千貫樋の改修工事は、明治35年度に実施される予定でしたが同年に大規模な洪水に遭遇。付近の堤防が損壊したために煉瓦造りへの改築工事は先送りとなりました。修復された堤防の規模が以前よりも大きくなったために千貫樋の設計も変更が必要となり、長さは当初の30尺(約9m)から、47尺5寸(約14.3m)へと設計変更されています。
尚、千貫樋は平成30年9月に土木学会選奨土木遺産に認定されました。
引用元:きまぐれ旅写真館様 引用元参考文献:(埼玉県行政文書 明2503-7)
水門の戸当りと柱を強調しデザイン。川表に施設名と竣工年、両方の銘板があります。千貫樋の上の道路は荒川の旧堤防。現在は県道57号で交通量は非常に多く千貫樋の真上にはバス停もあります。水門としては現役を引退していますが道路橋としては重要な橋として現役の水門橋です。
アーチリングは煉瓦小口の4重巻き立て。普通煉瓦のみで組まれていて異形煉瓦(くさび形)は使われていない。アーチ脚部は表面のみだが切石(迫受石)で補強。川裏に迫受石が使われている煉瓦樋門は県内では珍しく現在残っているのは、この千貫樋と甚左衛門堰枠(綾瀬川、草加市)の2基のみ。
【短期間で終了した建設工事】
千貫樋の建設工事は請負方式(総工事費は9,603円、工事担当者は大久保村長)で行なわれ、明治37年4月30日に着手し、同年6月15日に竣工している。竣工予定日は明治37年5月30日だったので工事完了は予定よりも遅れましたが、使用煉瓦数153,000個(選焼過一等:32,000個、焼過一等:121,000個)の大規模な樋門にも拘らず建設工事が45日間という短期間で終了しているのは驚きです。埼玉県立文書館には千貫樋の設計図、杭頭切取図をはじめとする関連文書が保管されている。基礎の工法は当時一般的だった土台木。これは地盤へ基礎杭として松丸太を打ち込んでから杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固め、その上に捨コンクリートを打設した方式です。松丸太は直径六寸五分(約20cm)、長さ七尺(2.1m)が61本、長さ六尺(1.8m)が176本、計237本が使用されています。他の煉瓦樋門に比べて松丸太の長さが短いことが読み取れます。
初期の木造製逆流防止水門としての千貫樋が建設されたのは、弘化四年(1847)。洪水に苦しむ近隣の村々(五関村、塚本村、下大久保村の名主が連名で、奉行所に建設許可を請願した記録が残っています。:埼玉県史 資料編13、p.663)が千貫樋の建設資金として貧しい生活の中から小銭を工面し建設したとの説があります。
貫とは当時のお金を数える単位で、一文銭1,000枚が一貫となりますので千貫とは一文銭が100万枚となります。また、文化年間(1810年頃)に編纂された新編武蔵風土記稿の足立郡五関村(第8巻、p.115)には、千貫樋について「鴨川に架せる石橋の名にて今は土地の呼名となれり。相伝ふ古に樋を設けんと銭千貫文を費したれど地の理あしくして成らず。故に其名を残せりと云へり」との記述が残っています。
千貫からの銭(お金)とは、幾ばくか誇張してるかもしれませんが、洪水による被害をくい止める為の先人達の苦労と、当時の村々が一丸となって臨んだ事を表していると推察します。
木造製逆流防止水門から煉瓦造りに改良されたのは、北足立郡大久保村(旧.浦和市)、馬宮村、植水村、三橋村、指扇村、日進村、宮原村(以上、旧.大宮市)、 大谷村(現.上尾市)からなる8村で構成された鴨川落悪水路普通水利組合(管理者:大久保村長 榎本佐左衛門)の建設申請書によるものです。この建設申請書には「煉瓦造りに改良すれば永遠の保存上得策である((埼玉県行政文書 明2495-13))」と記さ、幾度と洪水被害による村民の苦労と木造水門修復の苦労が読み取れます。
煉瓦造りで改良されてからの千貫樋は改良後も続く幾度の洪水にも屈する事はありませんでした。
現在の千貫樋は水門としての役目を終え、その役目は千貫樋から1Km下流に設けられた鴨川排水機場と鴨川放水路が担当しています。また、荒川から鴨川へ洪水の逆流と内水氾濫を防ぐために、当時よりも鴨川の合流点は下流へと移動され排水機場が設置されました。
現代の千貫樋に代わる代替施設はさくら草水門ですが、その大きさを比較すると千貫樋は信じられないほど、小さな治水施設ですが、村々が一丸となって完成させて木造水門は、後に煉瓦作りへと改良され長きに渡り役目を果たして来たことを思うと千貫樋は先人が水と闘ったことを後世に伝える貴重な土木遺産だと強く思います。